卒論の要旨

教授の方々による口頭試問のための卒論の要旨です。
「んな長い文章、読んでられっか!」という方におすすめですよ。





成年コミックマークの爪痕――マルチスクリーンバロック

 著作物に対する規制は、それが作者たち自身が選びとったものではないという点で、負の圧力であるといえる。それまでの表現のあり方が規制によっていびつに変化してしまう可能性があるためである。しかし、表現は規制によるいびつさをきっかけとしてさらに洗練されていくこともある。規制は、それがない状態での表現の進化の歩みを止めてしまうものかもしれないが、じつはその歩みを別の方向へと進めていくものでもある。本論文はこのような創作物への規制が表現に与える影響についてマンガを例として論じた。
 第1章では、戦後マンガの表現が引き起こした主な事件とその後の経過について検証し、戦後の規制の流れを明らかにした。マンガ規制の根拠は多くの場合、読者に悪影響を与えるというものであり、その「読者」には子供が想定されることが多かった。
 第2章では、戦後最大の弾圧事件とも評される1990年代初頭の有害コミック騒動の経過と、それを受けたその後のエロマンガの変化について述べた。この騒動の結果として導入された規制が成年コミックマークの付加である。すべての成年向けのマンガの表紙に貼られることになったこのマークは、成年向けマンガとその他のマンガとのあいだに制度的・表現的に深い断絶を生んだ。マークの影響もあって成年マンガは過激化・抜き重視化の道を進むことになり、エロマンガは自由にセックスを描くことができなくなった。
 第3章では、マルチスクリーン・バロックと呼ばれる成年コミックマーク以後のエロマンガの状況が生み出した新しいマンガ表現について考察した。マルチスクリーン・バロックという表現の特徴は、まず過剰さと非正統性にある。見開き全体で読者の性欲を高める絵だけを過剰に詰め込むことで、コマによって担われていたマンガの読みの順序の重要性は減退した。これによってマンガとしての物語性は弱まったが、代わりに読み手がまず見開き全体をひとつのコマのように読むようなアイキャッチ性を獲得した。マルチスクリーン・バロックにおいて詰め込まれているのは欲情対象キャラクターの同化を促す性的快感の記号である。マルチスクリーン・バロックの紙面を一目見た時の迫力とは、見開きの全てのキャラクターと一気に同化するため起こるものである。見開き構成が多層であるという点で、マルチスクリーン・バロックは少女マンガ的表現と共通しているが、少女マンガが多重コマ特有の時間感覚を的確に操作して表現したのに対し、マルチスクリーン・バロックは2つのコマの関係が未来、過去、同時であるか確定できないという点で異なっている。またマルチスクリーン・バロックは、コマ内外の空白の空間や背景などの意味の無い絵である「間」のほとんどを削りページを圧縮し、その分性的快感の「情報」を詰め込むことで読者に思考の暇を与えず、快感の「情報」だけを一方的に与えるエロマンガ表現である。
 成年コミックマークという規制はマルチスクリーン・バロックが出現した原因の一端となっている。つまり規制されている状況下だからこそ生み出された表現といえる。そうである以上、全面規制以外ではマンガ表現と規制の関係はイタチごっこにすぎない。