授業のレポート晒し。 町田ひらく「たんぽぽの卵」シリーズ

読み返してずいぶん気持ち悪くて頭悪い文章だと思ったけど、晒しておけば何か面白いことがおきるんじゃないかと思ったので晒しときますね。
コピペとかパクリとか全然気にしませんので、どっかの学生の方はレポートに困ったらこれをまるっと提出しちゃえばいいと思います。
その後の学校生活に関しては一切責任を負いかねますが。






 町田ひらくの「たんぽぽの卵」シリーズは18禁エロマンガ雑誌『コミックLO』で15回にわたって連載された長編作品である。シリーズを通じて全国津々浦々の悲惨な少女が描かれるが、私たちはその姿から勇気を受け取ることができる。少女を人形のように扱う一般的な凌 辱系のエロマンガと比べても極めて特異なことだが、少女たちは紙面の中で確かに生きているのだ。
 「たんぽぽの卵 #9」では、少女が母親に折檻を受ける場面から始まる。子供はだんだんと親の手がかからなくなるにつれ自意識が育つ。すると親の行動の非合理性が見えてくる。「決して全て親が正しいわけではない」と考えるようになり、そして子供の反抗が始まる。これを叱るときに親はしばしば迷信を使う。言うことを聞かない子供は「悪い子はいねえか」と山からなまはげがやってきて連れて行かれる。また、いい子にしていないとサンタさんがプレゼントを持ってこない、などさまざまあるが、この家庭の場合は「卵に戻して落とすよっ!!」である。「生まれる前に戻して存在が元々なかったかのようにして殺す」ぐらいの意味だと推察されるが、彼女はこれがありえないことだと知っている。正確には知ってはいるが確証はない。そんな確証の得られない不安を下校の路で友人に冗談として笑いながら語る。友人にも一緒に笑い飛ばして安心させてほしいのだ。下校風景は、連れだって制服を着た子供がランドセルを背負って歩いている、というようにビジュアル面で最も子供らしい雰囲気が生まれる場面のひとつである。彼女の幼稚な不安を語るにはふさわしい。
 しかし、その子供の空間を大人びたもうひとりの少女、莉加が後ろから歩き、彼女に馴れ馴れしく大人が群がってくる。大人に囲まれた空間を彼女は恐れもしない。「親父の方に『降りて来た』ってさ」「あの子もこれで/お前みたいにいい子になるわ」。彼女も「降りて来」る前は冒頭の少女と同じように生意気な悪い子であったのだ。娘の聞きわけがなくなると「降りて来」ていい子にさせる、これは揺れる看板に示されている「花町商栄会」の慣例であり、習慣である。なぜそれがあるかはわからない。理由を強いてあげるならば、慣例だから。そこに合理的な意味はない。莉加は1年前に彼女じしんが受けた慣例の儀式を少女に重ねて思い出す。
 夜中、裸で迫る父親に突然起こされた莉加は「ジョーダンじゃないよ/モー」とそれまでのように悪い子的言動みせる。「冗談なんかと違うよ」と父親は言う。ベッドに並んで寝転がった2人の対比のコマは否応なく現実を突きつけて来る。小さく細い彼女の身体に比べ父親はあまりに大きく、毛むくじゃらで醜悪であった。迷信ではない。事実、慣例の怪物、「なまはげ」がやって来たのだ。母親の過去の儀式の話を聞き、初めて見る勃起した男性器を見、そして「お前がいつまでも/悪い子だからだ」と責任を押し付けられて莉加は戸惑う。その次に父親が「好きだ」と言った瞬間理解した。これは不条理であり受け止めなければならない現実なのだと。父親も慣例の被害者であり、不条理の現実の中を生きる大人であった。もはや父親は彼女の知っている父親ではなく、慣例に支配された父親であり、以前の父親とは違い、「パパ/パパ……」と呼んでも決して応えてはくれはしない。そして、莉加の手の中に放出した精液を互いになめ合うことで、莉加も父親と同じように慣例の共犯者となった。父親のペ ニスをくわえて莉加は涙を流すが、これは慣例として不条理の一部になることの恐怖であろう。ペ ニスを挿入すると奥に置いてある子供用の勉強机は暗くて見えづらくなっていく。だがその代わり、顔も赤らみセ ックスの快感の片りんを見出していく。莉加は父親との性交で、自分にはどうにもならない非合理と不条理があることを知り、その存在を認め、いい子となった。その後は親に反抗しなくなったであろうと想像できるが、決して親の威圧によるものではなく、親という不条理を受け入れたためであるはずだ。
 回想が終わって次の日、莉加を囲んでセ ックスの会合が開かれる。挿入時の書き文字が「ぎゅっ/ぎゅっぎゅうっ」から「ずっ/ずるっん」になったことからもわかるとおり、莉加も小学生とはいえ1年も続けていればセ ックスにこなれてくる。むしろ「もういい」と言われるまでペニスを舐め、肌を上気させ積極的に快感を受け取ろうとしている。アナルセ ックスどころか、膣にも口腔にもペ ニスが挿入されているが、まったく苦しい様子がない。そこに冒頭の少女が連れてこられる。彼女を見る莉加の眼はとても子供のする目つきには見えない。目はトロンと半分だけ開き、眉は性感に耐える表情をつくりだす。少女は慣例にしたがって無理やり脱がされ、抵抗もそこそこに前戯もなしに挿入される。まだ慣れてはいないために少女は痛がり苦しそうな表情をにじませる。その前景では莉加が二本のペ ニスを膣と肛門に迎え入れながら恍惚の声をあげる。ここでは2人の少女の、悪い子といい子の、子供と大人の対比がはっきりと示される。
 最後のモノローグは過去に少女と莉加が交わしたであろう会話だと思われるが、ここで少女は転校生、つまりよそ者であったことが初めて明らかとなる。よそ者の少女にこの地方での子供を諌めるための言葉を教える莉加の声のトーンは少女とは少し異なっている。「爺ちゃんが夜孕 ませに来るぞ!」これをなまはげのように迷信だと信じたい少女は何も知らないため「アハハハッ/あり得なーいっ」と無邪気に笑っている。一方で莉加は「転校生にも/容赦ないよ」と、そこにはある種の冷やかさが宿っている。彼女はこの慣例の経験者であるため言葉から重みと信憑性がにじみ出てくるのは当たり前と言える。莉加は少女よりも大人なのだ。しかし莉加の語り口には「エー?こっちの方は/エゲツ無いで」とどこかジョーク的な雰囲気が漂っている。小学生という低年齢で突然父親相手に破 瓜、その後近所の大人に強 姦、という壮絶な体験をしたにもかかわらず、それを諦めて認めしっかり前を向いて生きている。「死んだ方がマシやろ?」は非常に痛々しいジョークであって、莉加は死にたいぐらい辛い不条理の世の中でも、それとなんとか付き合って生きていくしかないのだと実体験によって知らされたのだった。さらに彼女は不条理に屈するどころか、性感を得ながら、たくましくも生きていけるようになった少女なのである。
 この物語のラストでは、少女の時期が終わりセ ックスには「ご用済」となった2人の少女が、開放的な病院の屋上で今まで自分が相手にしてきた男をネタに談笑する。一方の少女は男の乱暴なセ ックスで3日間生死をさまよった直後であるが、どうしようもないことを知っているから、それでも男を憎まずに事態を受け入れ、元気に男を貶す。彼女たちは痛々しくはあるがかわいそうではない。世界を受け入れ、強く生きている。

 「たんぽぽの卵」のシリーズに登場する少女は身体から記号が取り払われており、キャラクターを見分けるのがとても難しい。このようにどの少女も同じように見えるのは何も作者の画力が乏しいわけではなくて、少女を見分ける必要がないからだ。彼女たちのほとんどには名前すら与えられず、個人ではなくただの少女として描かれているが、要は誰でも同じなのだ。時、場所に関係なく適当にサンプリングするとしても、どこでも同じようなことが延々と繰り返されている。必ずしもある特定の少女でなくても、その悲しみ、苦しみは別のだれかも感じている。マンガに必要な要素とは「コマ構成」「言葉」「キャラ」である、と言ったのは伊藤剛であるが。その中のひとつである「キャラ」性をビジュアル的にも内面的にもはぎ取られたとしても、少女はそれでもマンガの中で生きるしかない。しかし、そんな個がないのは少女たちばかりではない。現代の差異化ゲームの果てに疲れ切った私たちの姿が彼女たちに重なってくる。
 彼女たちは作者、町田ひらくによって原稿用紙によって描かれたキャラでしかなく、個さえ与えられずに蹂躙されるという不条理の中にある。しかし、その不条理を否定するのではなく、当然のこととして受け止めており、それしかできないということを理解してそれでもマンガの中で力強く生きている。私がどうしようもない壁につき当たって落ち込んでしまったときに本作を読むと、エロマンガながら勇気が出てくるのはそのためなのである。



町田ひらく「たんぽぽの卵 #1~#6」『黄泉のマチ』2006年、茜新社
町田ひらく「たんぽぽの卵 #7~最終話」『たんぽぽのまつり』2010年、茜新社