表現規制について 2009夏

去年の夏に部誌へ寄稿した記事。
特集が「表現規制」だったんだけど、そのまとめ的なもの。
東京都の条例の流れでなんとなく晒しておきます。


「部誌」が気になる方は新潟大学の「黎明祭」か「新大祭」のときに「映画倶楽部」のブースまでお越しください。



 とりあえず、座談会の話から書いていこうと思う。グダグダな会になってしまった原因は私の準備不足なだけなので置いておいて。感じたことは大きく2つ。まず、表現者としての自覚がまったくないということ(私じしんも偉そうなことは言えないのだが)。映画倶楽部の座談会のはずなのに当の自分たちの表現について話が及ぶことはなかった。当事者意識に欠けている。自分たちには関係のない話だと考えているのだろう。現状として映画倶楽部では好き勝手に映画を撮っているが、これは決して当たり前のことではなかった。欧米なんかでは表現というものは勝ち取って得られたものだ。私達にはその意識が圧倒的に足りなく、過去の表現者たちの活動の結果を安穏とむさぼっているにすぎない。

 しかしながら、「表現は戦わないと得られない」という意識が希薄なのは理解できる。国内に限って言えばもともと歴史上、文化のために戦うことは少なかった。キリスト教のように宗教の縛りは強くなかったし、権利意識も輸入品だ。ケータイのフィルタリングで言うならブラックリスト方式だったため、文化の自由度は高かったのである。戦時の映画規制も国民が旗を挙げて廃止を迫ったのではなくGHQの口添えであったことを考えても、やはりそこに文化を守るための活動は見られない。

 また、表現が規制されてしまうことじたいにリアリティがない。思想弾圧された戦前・戦中はもはや遠い昔、まさか逆戻りするはずもない。みんなどこかで「規制されても結局大丈夫」とか思っていたりする。

 戦わなければ、あっという間に規制の波が押し寄せてくるのだ。私は今回の特集を通しててそのように感じた。特に、最近の「気に入らないものは排除する」という空気の中では表現を守るための行動がいっそう必要である。が、危機感はどこにもない。規制に関して興味のない人にいかにして関わってもらうか。活動に動員させるか。そのための方法は今後も考えていかねばならない。

 次に感じたのは、性について語ることの困難さということ。座談会のメンバーの女性に「AVの中身を見たのか」と尋ねると言葉を濁され、また他のメンバーからはセクハラだと非難を受けた。彼女がエロマンガとの比較でAVのパッケージの話を持ち出したから、ではエロマンガとAVのどのような表現を比較したのか尋ねたのである。そこにセクハラ的な意味合いやネタっぽさを加えたつもりはまったくない。また、私が持ってきた数々のエロい資料に積極的に目を通そうという人はあまりいなかった。座談会という比較的フォーマルな場ですらまじめに性を語ることまでも忌避されてしまっている。

 このような状態では、「ポルノ」という語がくっついた時点で児童ポルノ法についての議論は不可能となる。座談会のグダグダの(私の責任ではないほうの)原因はここにある。私の私見を言うと、私たちは所詮「歩く猥褻物」なんだから性から逃げ回るのはバカバカしいことこの上ない。ついでに言うとそもそも親がエロいことして生まれてきたのがおまいらなんだから、性から逃げ回ることは自分を否定してるのと同義だ。なにも常時下ネタを吐き続けろと言うつもりはないが、せめて「勉強」という建前のあるときぐらいはセックスについて語れるようになっておくべきではないか。そうでなければ、「児童ポルノ法」というネーミングだけで拒否反応を起こし、その裏の警察の権限拡大という重大な問題点に気づかないことになってしまう。

 性について気軽に語れなくなった原因ははっきりしている。ゾーニングされすぎたのだ。エロマンガは18禁シールが貼られ、売り場が隔離され、隠され、目につかなくなった。その他の性メディアでも同様である。アニメではパンチラすら規制されている。エロいものは青少年だけではなく社会全体から隔離され、見ようと思わなければ見ることがなくなった。そして現在では次の段階、見ようと思ってもどこにいけばよいかわからない状態、さらに、見ることを諦める状態、そもそも見ようと思わない状態へ移行しつつある。

 この流れの行きつく先に、性的なものを極端に嫌い、ヒステリックに規制を推し進めようとする輩が現れる。この種類の人たちの議論は見ていて本当に興味深い。たとえば、「細かい議論が沢山あると思うが、何で反論している人の事まで考えなきゃいけないのか。不愉快で子供に危険が及ぶ物と公共の福祉とのどちらに重きを置くのか、ガンと後者に持っていけば良いと思う。マイノリティに配慮し過ぎた挙句、当たり前の事が否定されて通らないというのはどうしても納得出来ない。」などだが、ここでの問題は彼等が内実をわかっていない、わかろうとしていないということだ。自分たちの「当たり前」を疑いもせず絶対的に正しいと考え、その範疇から漏れたものは何としても排除すべきだと述べている。非常に盲目的で具体例を挙げる必要すらないと思い込んでいる。エロマンガであれば、誰が描いた何という本の何ページ目の何コマ目がエロすぎるだとか、コミックLOは明らかな児童ポルノであるだとか、コンビニ誌では一般誌に比べてこれほどエロさが抑えられているだとか、エロマンガ愛好家たちの間に流れている空気とはこんな感じですだとか、具体的な事例や調査などという話がまったく出てこない。「エロマンガは規制すべきだ。それはなぜかって?それはエロマンガが悪いもので規制されるのは当然だからだよ。」という円環した理論でもって彼らは動いているのだ。

 情報がゾーニングされすぎてエロマンガの情報はまったく入ってこない、入れようとしない。また、議論の参加者もゾーニングされてしまうようになり、冷静に規制していこうという人種は追い出され、ヒステリックな連中だけで話しは進んでいく。これは規制反対派、つまりオタクの側にも言えることで、規制反対の署名の冊子ひとつ見ても完璧に内輪向けで自分たちのゾーンの外側に出ようとしていない。興味のない中間層もゾーニングされていて、外から情報が入ってくることはなく、また求めることもしない。要するに社会全体、人、情報、思想、文化がゾーニングされまくってにっちもさっちもいかない状態となっている。最近のはやりで言えば「島宇宙」という言い方もある。この状態は決して均衡状態ではない。ゾーンの中のすべては先鋭化し、ゾーンどうしの確執は深まり続けていく。

 この問題を解決したいと思った時、私の立場から言うなら「表現規制反対運動」がしたいと思った時にいったいどうすればよいのだろうか。何かやりたくてもどうすればよいかわからずにいる人は意外と多いと思う。「知識はないし、地位も権力もない。勉強するのは大変そうだし…。」08年の児ポ法改正の一連のネット上での議論をみているとそのような空気が感じられる(規制反対の活動を精力的に行っている人々が、このようなやる気はある人々に指示を出しきれなかったこと、活動のソルジャーに育てようとしなかったことをここで批判したい)。

 しかし、労力のかかることをする必要はない。最も簡単な規制反対運動は「誰かに勧める」こと「誰かの目障りとなる」ことである。友達でもだれでもよいから身近な人にエロマンガならエロマンガを見せてやるのだ。存在は知ってるけど中身は読んだことないという人へ押し付けてやる。興味のないヤツらや嫌悪してるヤツら、その場その場で空気を読むことが必要だが、とにかく仲間内ではない他のゾーンの人間と交流が必要なのだ。批判するにしてもとりあえず知ってもらわなければ建設的な話にはならない。情報が共有されれば気持ちよくお互いに理解し合い、落としどころがはっきりしてくる。誤解は必ず解けるはずである。


以上が総括というか、特集の編集作業を通して私が感じたことだ。表現規制を食い止めるために果たして私に何ができるのか。それをなんとか探し当てようとしたのがこの特集という企画だった。身勝手にもつきあわせてしまった映画部員、特に特集に記事を寄稿していただいた方やレポートを書かせてしまった編集部員の2人には申し訳なかったと思うが、それでも私の中ではそれだけの価値は得られたと感じている。お礼を申し上げたい。

 ここまで読んでいただいた読者の方が特集記事を読んでどう感じられたのかはわからないが、とにかくその何か感じたものを誰かに話していただきたい。現状で我々に必要なのは対話である。これほど大きな法律が成立しそうなのにオタク以外で議論がまったくない。児ポ法が改正されるにしろ廃案になるにしろ、国民が納得してなされるべきだ。納得をするためには議論を重ねるしかない。「エロマンガはキモイ」でもまったくかまわない。何かを声に出してほしい。すべてはそこから始まるよう気がするのだ。
そして、そのきっかけとして、この特集がどこかに少しでも波紋を広げられるようにと切に願う。