卒論構想 「エロマンガの表現――マルチスクリーンバロック――」

 1992年の「成年コミックマーク」の導入でマンガ界は大きく変わった。「成年コミックマーク」とは、1988~89年の東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件、いわゆる宮崎事件に端を発した有害コミック騒動の最終的な結論である。それまで野放しにされていたマンガにおける性表現を子どもの目から遠ざけるために、出版社側が自主的にマークを付け始めた。このマークが意味するのはマンガのジャンルにおける「成年向け」と「一般向け」の決定的な断絶と、それぞれのジャンル内での性表現の洗練・先鋭化だ。混沌としたマンガ界に突如として仕切りが入った。

 「断絶」と述べたがきれいに二分されたわけではない。大手出版社は原則マークの付かない作品のみを出版するようになったため、「成年向け」はトカゲの尻尾のように切り離された格好になった。「一般向け」に比べれば「成年向け」=エロマンガの面積は狭い。その狭さゆえに表現の洗練・先鋭化はより加速していった。

 ジャンルとして括られてしまったエロマンガの変化を一言で表すなら「抜き重視化」となるだろう。「抜き」というのは自慰行為のこと。エロマンガはポルノグラフィとしての役割を強く内面化し、読者の射精の欲望に応えるだけではなく、積極的に射精を促すように表現を洗練させていった。

 エロマンガはわざわざ18禁となった意味を問いつめられ描写の過激化を図る。セックスシーンの挿入を強制され、その最低ページ数も定められた。しかし、そのページ数では足りないという事態が起こる。そこでエロを圧縮する表現が生まれた。マルチスクリーンバロックと名付けられたマンガ表現だ。

 一般向けマンガのセックス表現と比べてもエロマンガのセックス表現は読者に射精を促すと言う点でまったく異なった表現だが、マルチスクリーンバロックはその極地と言える。読者は物語上の一瞬に膨大な量の情報(性感)を受け取り、視線の流れの定まらない古典的マンガ文法破壊で読者は奇妙な倒錯感を伴いながらそれを延々と眺め続ける。そのページを凝視している間に射精しろと、ここが抜きどころだとコマ構成は語っているのだ。

 ところでマンガにおける同一化の議論がある。竹内オサムは登場人物と読者の視点が重なることで同一化がおこると論じた。しかしこれは目玉を同じ位置に想定させるだけである。エロマンガで読者に射精を促すためには視覚だけではなくキャラクターの快の感覚を同化させなくてはならない。泉信行は読者がキャラクターの主観と同化するためには身体感覚や位置感覚などの情報が必要だといった。マルチスクリーンバロックはこの情報の応酬である。男のキャラクターだけではなく女のキャラクターの感覚までも同化する読みを強いる。

 成年マーク以前は竹内の視点同化が主流であったが、それ以後は表現の洗練の中で、マルチスクリーンバロックのような感覚同化へとマンガ表現は変化した。



関連: 「たゅん(@talyun_)のエロマンガ論、ポルノ論」-Togerrer- http://togetter.com/li/4174