成年マーク導入後の一般向け性表現

もう2年も前に授業で書いたものなのでいろいろと拙すぎて涙目なんですが、まあ公開しておきます。
さすがにタイトルは変更。(元タイトルは『マンガにおける表現規制と性表現』)

多少のことに目をつぶれば、ちょっとは面白いはずです。




第1章  はじめに
 
マンガは過去数多くの表現規制と闘ってきた。日中戦争直後の「児童読物改善に関する指示要領」による文化統制に始まり、(竹内オサム、1993)現在でも児童ポルノ法改正に伴い子どもに対する性的虐待を性目的で描写したマンガも規制するか否かという議論(日本ユニセフ協会、2008)が行われている。日本では出版物の約三分の一(発行部数)をマンガが占めている。(竹内 一郎、2005)そのようにマンガが人々の間に広く浸透し、影響を与えている社会ではマンガの表現規制は当然のことかもしれない。これに対して漫画家・マンガファンの多くは表現規制に反対しており、2008年夏のコミックマーケット ではマンガファンを対象に「創作物の規制/単純所持規制に反対する請願署名」(創作物の規制/単純所持規制に反対する請願署名市民有志、2008)も計画されているほどである。このような規制反対派の人々はおそらくひとつには表現規制によってマンガがつまらなくなってしまうことを恐れているのだと思う。確かに表現規制はマンガの表現の幅を狭めてしまうため、マンガの魅力が失われてしまうこともあるかもしれない。しかし、マンガの表現規制の影響はそれだけなのだろうか。また、表現規制によってマンガはどのように変わってしまうのか。
 本稿では、宮崎事件の前後でのマンガにおける性表現とその規制の実例を通して表現規制の意味、はたらきの移り変わりについて論じていきたい。



第2章  規制の前後を比較して

 1988年から1989年にかけて発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎事件)は、犯人の宮崎勤がいわゆるおたく・ロリコン・ホラーマニアとして報道されたということが原因で全国的なマンガの表現規制が叫ばれるようになった。(ダーティ・松本、1993)この結果、出版業界では自主規制の動きが強まり、今のマンガにもそれはもちろん反映されている。この章ではこの頃の急激な出版社による自主規制が行われた前後で、マンガの、特に性表現を比較しその変化を見ていくことにしたい。
 川村純子の『いけない!ルナ先生』は、講談社の少年漫画雑誌「月刊少年マガジン」に、1986年から1988年にかけて連載されていた、いわゆるお色気マンガである。本作品は当時かなりの人気作であり、コミックスの発行部数は累計215万部以上にものぼったという。しかし、この作品は遊人の『ANGEL』と並んで、2年余に及ぶコミック規制騒動の中で、最も槍玉に挙げられたマンガであり、単行本は回収、発禁となってしまった。(『誌外戦』編集部、1993)このことから、『いけない!ルナ先生』は自主規制が厳しくなる時期のまさに直前の、最も性表現が過激なマンガだったということがうかがえる。
 内容は、勉強嫌いの中学2年生の主人公、神谷わたるが美人女子大生の下宿人でわたるが通う塾の先生でもある葉月ルナに毎回エッチな個人授業をしてもらう、という話である。エッチな個人授業といっても性行為におよぶわけではなく、例えば、数学の問題が1問解けるごとに水着をめくらせ乳房に書いてある答を確認させるといった程度である。また、ルナ先生は誰にでもそのような指導をしているわけではない。彼女がエッチな個人授業をするのは母親を亡くしているわたるを憐れみ、母親代わりとしてわたるのをきちんと成長させなければならないと責任を感じているからである。よって、ルナ先生は決して多情なわけではなく個人授業の際には毎回羞恥心との葛藤がある。
 もちろん、本作の一番の売りはそのエッチな個人授業での性描写である。個人授業の始まりこそルナ先生はまだ水着や下着姿だが、ページをめくるにつれて自らの意思であったり、トラブルであったりで下着は段々と脱げ、指導の最後には必ずと言ってもいいほど全裸に近い状態となってしまう。私がここで注目したいのはルナ先生の裸体、中でも乳首の描写の細かさにある。(図1)

乳首にはトーンが張られ色が強調されており、さらに乳輪に影まで落ちているように、明らかに乳首が強調されている。乳首の強調は、乳首から集中線が引かれ、加えてコマの面積も大きくなっていることからもわかる。また驚くべきは、こんなに大ゴマであるにもかかわらず、乳首に比べて手の描写が極めて簡単だということである。手にしわの一つもなく爪すらない、ほとんどシルエットだけである。手の描写を簡略化させることは相対的に描写の細かい乳首を目立たせる。この作品では乳首は何をおいても最も強調させるように描かれているのだ。そしてそれが本作における見どころのひとつであり、そこが読者の心をとらえたのだといえる。
 しかし、この性表現は世間に過激だと判断され、前述のとおり『いけない!ルナ先生』の他、多くのマンガは書店から姿を消した。そしてこのあたりから世論の声を受け、出版業界全体は強い自主規制を始めることになる。SEXのシーンでどちらも裸で腰から下が触れ合っていてはいけない、吸茎シーンを描いてはいけない、など性表現に関して細かい縛りが生まれた。(森園みるく、1993)その中でも今も根強く残る自主規制の代表例に乳首・性器規制というものがある。現在、原則的に少年誌で女性の乳首や性器を描くことは禁じられているのだ。果たしてこの規制は現在のマンガにどのような影響を及ぼしているのか。
ここで『美少女戦士ペタリコン』という作品を挙げたい。『美少女戦士ペタリコン』とはアスキー・メディアワークスの少年・青年向けマンガ雑誌月刊コミック電撃大王」の増刊である「電撃萌王」に2006年から2008年にかけて連載されていたマンガである。作者が本人のwebページで「正統派アクションギャグ漫画(ほんのり?エロ風味)ペタリコン」と述べているように、本作には性描写と笑いが混在している。性表現と笑いの融合とはどのようなものだろうか。
ストーリーは、突如現れた地球侵略を狙う宇宙人と正義の秘密部隊に選ばれた3人の小学生がペタリコンに変身して地球を救うために戦うというものであり、「正統派アクション」マンガのあらすじの一例と言ってもよいだろう。またP(ピュア).E(エナジー).値と呼ばれる数値の高い少女しか着ることができない特殊戦闘服PETALIスーツは、少女たちの羞恥心に反応して攻撃力が上がる仕組みとなっている。そのため敵によって切り裂かれたり、溶かされたりして裸に近い格好になってはじめて敵を倒すことができる。なので1話ごとの流れとしては、敵に服を破かれ、その後逆転して敵を倒す、といったパターンがたいてい成立する。当然服を破かれるということは裸に近い状態なるということを意味しており、ここに「エロ風味」が存在している。
それでは「ギャグ」はどこに存在するのか。先ほどの『いけない!ルナ先生』でもエッチな個人授業の中にギャグ入ってはいたが、せいぜい目が飛び出すとか、鼻血が吹き出るなど笑いの対象は主にわたるのリアクションであった。(図2)

ここに性描写と笑いの融合は見られない。一方、『ペタリコン』での笑いの対象は乳首や性器を隠せと規定している性表現規制そのものなのである。
しかし、笑いの対象が性表現規制だからといっても、決して規制をかけた側を馬鹿にして笑いを誘っているということではない。逆に、このマンガでは乳首規制や性器の表現規制を厳格に守り抜いている。図3を見てもらいたい。

このシーンは、ペタリコン3人のうち二人が体に何本も触手をもった宇宙怪獣に捕らえられ、その口から吐かれる服だけを溶かす溶液をシャワーのようにかけられたところである。このようなペタリコンの大ピンチの時でも決して乳首、性器を隠すことを忘れてはおらず、その結果PETALIスーツの溶け方は不自然になってしまっている。2人のうちの手前の方のペタリコンなどショーツが少しも溶けておらず無傷で不自然極まりない。全身にかけられたのなら服が部分的に溶けずに残っていることなどあるはずがない。この不自然さの原因は乳首・性器規制であり、これは規制にしたがい乳首・性器をなんとか隠そうとした努力の結果なのである。現実に襲ってきたならまず太刀打ちできないであろう怪獣が吐く恐ろしい溶液よりも、出版社に勤める編集者のテコ入れの方が強いとはなんともおかしな事態である。そしてこの不自然な隠し方は同じようにペタリコンが服を破かれる度に必ず目にすることになる。同じことを何度も繰り返されれば滑稽さも増すというものだ。(図4)

web上のレビューを見ても「全裸にされても『どう隠すか?』に、作者の”全力”を感じた。w」、「脱がした後の全裸の隠し方、がこの作品の全てです!!」(何かよくわからん気まぐれBlog、2008)など、乳首・性器を隠すことを否定的にはとらえておらず、むしろ徹底的な乳首隠し、性器隠しはギャグとして肯定的に受け入れられている。『いけない!ルナ先生』では乳首を見せることが見どころであったが、『美少女戦隊ペタリコン』では表現規制のおかげで乳首を隠すことがギャグとしてこの作品の一つの見どころとなっているのだ。
このように性表現規制がギャグになる例は最近では他にも数多く見かけられる。竹内元紀の『仕切るの?春日部さん』の23話の入浴シーンもその好例だ。(図5)


乳首を隠したりせず、見開きでサービスするというという前フリを受け、読者が期待してページをめくると乳首はなんと本の綴じ目の奥にあるため見えなくなっているのだ。確かに彼女もこれを描いた作者も隠しているわけではないが、どっちにしても乳首が見えないことにはかわりがない。その下の二人はそれに衝撃を受けたためにつっこみが入り、「ボケ」と「つっこみ」が成り立って笑いがおこる。ここでも乳首規制がギャグとして利用されている。



第3章  ベルグソンの研究から

 それではなぜ乳首隠しがギャグになりえたのだろうか。ベルグソンは笑いに関して次のように述べている。

通りを走っていた男がよろめいて転ぶ。通行人は笑う。思うに、この男が急に地べたにすわろうという気になったのだと想定することができれば、人びとは男のことを笑わないだろう。人びとは男がそのつもりなくしてすわったことを笑うのだ。そうしてみれば、笑わせるのは男の体位の急激な変化ではなく、その変化の中にある不本意、不器用さである。石が通り道にあったのかもしれない。歩き方を変えるか、障害物をよけるかすべきだったのだ。それなのに、柔軟性が足りず、からだがほかのことに向けられていて、いうことをきかず、つまりぎこちなさ、ないしは惰性のせいで、事情がほかのことを要求していたときに、筋肉は同じ運動をおこない続けたのだ。だからこそ、この男は転んだ。そしてそれを通行人は笑うのだ。
次に、自己の日常茶飯事を数学的な規則正しさでおこなう人がいるとする。ただ、だれかいたずらものが、この人をとりまく事物にいたずらをしかけたと仮定しようその人がインク壺にペンをいれると、泥がついてくる。しっかりした椅子に腰かけたつもりなのに、床板にひっくり返る。つまり、この場合も惰性のせいで、あべこべにふるまったり、から回りしたりする。習慣が、あるはずみを刻みこんであったのだ。運動をとめるなり、ほかにそらすなりする必要があったのだ。それなのに、それどころか。器械的に一直線に続けてしまった。仕事部屋のいたずらの犠牲者は、つまり、走っていて転んだ男と類似した状況にある。同じ理由でおかしいのだ。どっちの場合も、笑いを誘うのは、ひとりの人間としての注意深い柔軟性と生き生きした屈伸性があってほしいところに、いわば機械のぎこちなさが見られるからだ。(Henri Bergson、1959)

話をマンガの性表現規制に置き換える。マンガを読んでいる読者各自は話の流れを考える際に次のようなことを自然と思うはずだ。登場人物が乳首・性器を露出して当然だと思われる状況が描かれる時、作者が想像力を注意深くはたらかせ、その状況に合わせて柔軟性を発揮させながら、そこにさりげなく乳首・性器が描写されている、ということである。この通りに描かれていたなら乳首・性器の露出は自然な流れということで決して笑いがうまれることはない。しかし、読者の意識に反してここに機械のぎこちなさを加え、笑いを生み出すのが表現規制である。表現規制はいわば決まり事だ。決まり事は行動の指針であり、これを逸脱することは許されない。つまり、決まり事の内容以外の行動はとれないのであって、たとえば融通をきかせて行動を変えることなどできない。表現規制はこのように頑固さを持っており、融通をきかせず乳首・性器を厳格に隠してしまうという様に読者は機械のぎこちなさを感じるのだ。
 先ほどの『美少女戦隊ペタリコン』の図3の場合、ペタリコンが服を溶かす溶液を全身にかけられたなら、普通読者はPETALIスーツの溶け方は全身で均等なのが自然だろうと考える。ペタリコンは敵に捕らえられ、危機的状況に陥っているのだ。そのような真剣な場面で下手なことをして雰囲気を壊してしまうようなことがあるはずがない。本来ならばこのようなピンチの場面はペタリコンと読者が危機を共感し、見ている側の緊張もどんどん高まっていくシーンのはずなのだ。ところが、乳首・性器規制のぎこちなさはこの緊張感をいとも簡単に打ち砕いてギャグにする。自然な流れが崩壊し規制のぎこちなさを見つけてしまうや否やすぐにペタリコンとの感情の共感は断ち切られ、逆におかしさがこみ上げてくるというわけなのだ。
 また、ベルグソンはこうも述べている。

 たとえば、ここで、ある雄弁家のなかで、身振りとことばとが張りあっていると仮定する。身振りは、ことばに嫉妬して、思想のあとを追い、自分もまた思想の代弁者の役を果たすことを求める。それはそれでよかろう。しかしこの場合、身振りは思想の進展の詳細を追っていくことを引き受けねばならない。観念は、雄弁の始めから終わりまで、生長し、蕾をふくらませ、花を開き、実っていくものである。観念は決してとどまらず、決して繰り返されない。観念は刻々変化せねばならない。変化するのをやめるとは、生きるのをやめることになるだろう。したがって、身振りも観念のように生気をおびなければならない。それは決して繰り返されないという生命の根本法則を受諾すべきである。しかし、ここで、腕なり頭なりのあるいつも同じ動きが、周期的に立ち返ってくるように思われると仮定する。もしわたしがそれに気づき、もしそれがわたしの心を奪うにじゅうぶんであり、わたしがそれを次に現れる機会に待ちうけ、そしてそれがわたしが待ちうけているときにやってくると、思わずわたしは笑ってしまうだろう。なぜだろうか?それは、いまや、わたしの前には自動的に動く一つの機械があるからだ。それはもはや生命に属さない。生命の中にはいりこみ生命をまねる自動現象に属する。それはおかしいものなのである。(Henri Bergson、1959)

つまり、乳首・性器規制は修正がかかるタイミングが予測しやすいという点でもおかしさを生む。修正がかかるタイミングというのは単純に乳首・性器が露出するときであり、基準が明確であるがゆえにとてもわかりやすい。『ペタリコン』でいうなら、ペタリコンたちが何度敵にPETALIスーツを切り刻まれようともそのたびに何回も同じように不自然に修正が入っている。(図4)読者は読み進めるうちにそれに気づき、修正の入るタイミングを待ち受けることになる。その状態でPETALIスーツが破れ修正が入ると「やっぱり」と感じておかしみが生まれるのだ。
また、『仕切るの?春日部さん』の先ほどの図5の例を用いれば、ここで読者は入浴シーンということで乳首・性器の露出を予想し、修正を待ち受けることになる。少年誌の入浴シーンでは一般的に、規制のおかげで不自然な湯気やタオルや泡、人や障害物の配置で乳首・性器を隠すのが普通なのだ。(図6)

だから、真面目な流れの中での入浴シーンだとしても、そこではいやでも修正を覚悟しなければならない。このマンガの中の女性は気分がいいから隠さないと言っているが、そのようなことできるはずがない。乳首を隠すという決まりが存在しているのだから、もしここで乳首が見えていたら乳首規制の終焉となるはずである。そう思ってページをめくると、案の定、乳首は本の綴じ目で隠れており、読者は「やっぱり」と感じて笑うのだ。
このようにしてマンガの性表現規制はギャグになりえている。少年誌で乳首・性器を描いてはいけないという常識が浸透している現在ではそれらを隠すことは単に規制という意味だけではなく、面白いものとしても認識されているのだ。



第4章  新たな価値の創出

 性表現規制で笑いが生まれることをこれまで見てきた。そしてこの種のギャグが生まれたのは乳首・性器規制が始まったためであるといえる。乳首隠しをギャグにするためには読者が乳首・性器は表現が規制されているという事実やその理由を知っていなければならない。そうでなければ不自然な修正を待ち受けることができず、乳首の隠れている箇所を発見してもそれを疑問に感じるだけである。また、漫画家の側も自分の描きたいものだけを描きたいという願望がある以上、周りからの声や編集者からの圧力がなければ乳首を隠そうなどとは思わなかった。規制とはそれが始まる時には仕方なくなされるものであったはずである。ところが、仕方なくやっていたはずの規制は『美少女戦士ペタリコン』をはじめ、積極的に表現としてマンガの中に取り入れられている。これは表現規制によって新たにもたらされたポジティブな意味に気付いたことを示していると言える。表現規制は元来表現の自由を奪うとものとされてきたが、一方で新しく前向きなものを生み出すきっかけでもあるのだ。
 桜井のりおの『みつどもえ』というマンガがある。これは、小学6年生三つ子とその周辺人物たちの日々を描く普通のギャグマンガである。この作品のギャグは『ペタリコン』などとは違って、日常の人間のすれ違いや登場人物のおかしな性格によって笑いを生む、いわば王道的なものである。その中にはギャグとしてパンツを被るなど非常に多くのパンツが登場する。ある読者のレビューでは「おそらく2007年で一番ぱんつの登場回数が多かった作品だと思う。」(たかすぃ、2008)とも言われているほどである。しかし、ここに登場するキャラクターたちは決してパンチラをしない。作者が意図的に不自然に隠しているため、この作品ではいまだかつて完全なパンチラが描かれたことはないのだ。(図7)

なぜパンチラを隠すのか。本作が連載されている少年チャンピオンの他作品を見ても、パンチラ規制を行っているというわけではないらしい。隠すことはまったく不要のはずだ。しかし、作者は4巻の巻末で次のように語っている。「パンツは見るものではなく感じるものです 道を極めればおのずと柄やシワの一つ一つまで感じることができるでしょう」(桜井のりお、2008)つまり、作者が頼まれてもいないのにパンチラを規制するのは、読者にパンツをより細かく妄想させ、このマンガの別の新しい楽しみ方を提案しているからなのだ。実際に描かれているものよりも想像力を駆使したもののほうが何倍もいい。想像力に限界はないのだから。作者は読者各自に頭の中で最高のパンチラを妄想して楽しんでもらうためにあえて自主規制しているのだ。
これに類似して「はいてない」というジャンルがある。「はいてない」とは「下半身のラインがどうみてもおしり丸出しでパンツはいてないように見えるのに、そのことのついて何の説明もない」(湊谷 夏、2008)ということで、パンチラを自主規制して隠そうとした結果、パンツをはいているようには見えなくなったキャラクターのことである。(図8)

みつどもえ』は話の中でパンツをはいている描写があるため脳内でパンチラを想像するに留まるが、こちらはパンツをはいていない可能性すらある。その可能性ゆえに、読んでいるほうはスカートの中身の妄想を掻き立たせられる。パンチラを作者側で自主規制 し、わざと隠すことでこのような新しい楽しみ方が生まれるのだ。
表現の規制は確かに表現の幅を狭めるものであり、新しく規制をかけたならつまらないマンガしか残らなくなったという事態になる可能性だってある。しかし、今日さまざまな規制や社会の声が表現を縛りつけているマンガ界で、そのおもしろさは今もまったく衰えてはいない。それはひとえに漫画家たちのより楽しいマンガを作ろうとする努力のたまものなのである。規制された表現の中でいかによいものを作るか研究した結果、これまで述べたようなものが生み出されてきたのだ。その努力がある限り、表現を規制されたからといっても決してマンガの面白さは消えることはないだろう。マンガとは言ってしまえば嗜好品、本来必要のないものだ。それが幾度の規制に負けず、それどころか規制を乗り越えて次々とおもしろさを生み出している。嗜好品などよほど強いものがなければ少しの規制で潰れてしまうものだ。たかが嗜好品といえどとてつもないパワーをマンガは秘めている。そんなマンガの動向を今後も注意深く追っていく必要があるだろう。



参考文献リスト
竹内 オサム(1993)「マンガ差別・発禁・規制等”事件史”」コミックの表現の自由を守る会編集『誌外戦』創出版,pp.216-226.
日本ユニセフ協会(2008)「特集・子どもポルノから子どもを守るために」http://www.unicef.or.jp/special/0705/backnum/080317.html
竹内 一郎(2005)『人は見た目が9割』新潮新書
創作物の規制/単純所持規制に反対する請願署名市民有志(2008)「活動予定一覧」http://www.savemanga.com/2008/05/test_28.html
ダーティ・松本(1993)「1990年の落雷」コミックの表現の自由を守る会編集『誌外戦』創出版,pp.244-249.
浜銀総合研究所(2005)「2003年のコンテンツ市場における『萌え』関連は888億円」http://www.yokohama-ri.co.jp/press/pdf/pr050401.pdf
『誌外戦』編集部(1993)「『いけない!ルナ先生』絶版騒動顛末記」コミックの表現の自由を守る会編集『誌外戦』創出版,pp.194-200.
森園みるく(1993)「見比べてみると…」コミックの表現の自由を守る会編集『誌外戦』創出版,pp.82-83.
はせ☆裕「ペタリコン番宣2」http://www.geocities.jp/white8631ggg/osigoto-1petalicon-b.htm
何かよくわからん気まぐれblog(2008)「敵を倒すのが先か?全裸になるのが先か? 漫画『美少女戦隊ペタリコン』を読む!!」http://blog.livedoor.jp/okazuokazu1/archives/50992887.html
Henri Bergson(1959)Euvres,Textes annotes par Andre robinet, introductionpae Henri Gouhier, proffesseur a la Soebonne, P.U.F.(=鈴木 力衛・仲沢紀雄共訳『笑い』白水社、1965年)
たかすぃ(2008)「このぱんつがすごい!」『現代視覚文化研究 vol.2』三才ブックス,pp.44-45.
桜井 のりお(2008)「製作秘話」『みつどもえ④』秋田書店
湊谷 夏(2008)「このマンガがはいてない!」『現代視覚文化研究 vol.2』三才ブックス,pp.55.
はてなダイアリーテレ東規制http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%EC%C5%EC%B5%AC%C0%A9