過去のマンガ社会問題のだいたいのまとめ

竹内オサム「マンガの差別・発禁・規制等“事件史”」、コミック表現を守る会編、『誌外戦』、創出版、1993 を参考にマンガの社会問題のだいたいのまとめ。

誌外戦―コミック規制をめぐるバトルロイヤル

誌外戦―コミック規制をめぐるバトルロイヤル


1938年 児童読物改善に関する指示要綱

 前年の日中戦争を受け、戦時体制として言論統制が敷かれていく。マンガを始めとする児童文化も例外ではない。

  • 38年2月「紙芝居検閲制度」
  • 同年10月「児童読物改善に関する指示要綱」

 特にマンガへの風当たり強し。
 「卑猥俗悪ナル漫画」が廃止事項に。また、描かれるマンガそのものの量、特に長編マンガの量を減らせ、とのお達し。

  • 38年11月「日本児童絵本出版協会」創設
  • 39年  「日本児童漫画家協会」作られる 

 業者・編集者・作家の組織化。
 座談会を開き、啓蒙と研究に努める。>第1回では統制後のマンガの質の変化など。>「マンガのばかばかしさ・ナンセンス性を認めるべき」→「『のらくろ』を始めとする統制後のマンガはよくなった」

  • 41年『のらくろ』も軍部の干渉で連載中止<内務省の役人から「この戦時中に漫画などというふざけたものは掲載を許さん」というクレーム


1949年 敗戦直後の赤本漫画非難

 1947年の手塚治虫酒井七馬と組んだ『新宝島』の大ヒット以降、赤本漫画(零細業者による正規の出版ルートにのらないマンガ本。今で言う同人誌?)のブームが訪れる。
 戦後間もないため、中央の出版社がまだ体勢を整えていなかった。その隙間を縫って。

「漫画本を通じて子供が無意識のうちに犯罪の手口を覚え込む」
「赤本は万引きの対象になりやすく、少年を犯罪に走らせる」
「赤本のおかげで真っ当な児童漫画が白眼視されるのは遺憾」

 と批判される。


1955年 悪書追放運動

 戦後になって児童雑誌に占めるマンガの量が増える。特に、1953年に急増。漫画家も粗製乱造。彼らの生み出した粗雑な作品を標的にマンガ全体への批判がおこる。
 「日本子どもを守る会」「母の会連合会」および、各地のPTAなどが主体。
 内容の荒唐無稽さ、刺激的な暴力場面、エロ・グロのどぎつい表現、乱暴な言葉の使用、を問題点とした。
 
 多くの児童文学者や教育家も非難の側にまわり、魔女狩りの様相を呈してくる。
 55年9月に児童雑誌編集者側は「日本児童雑誌編集会」を結成、機関紙「鋭角」を発行して事態に対応。>批判者を交えて話し合いの会を催し、その模様を掲載。>新聞が故意にセンセーショナルに広めていったことが明らかに。

 1955年の悪書追放運動の直接的な所産としては、北海道(1955年)、福岡県(1956年)、大阪府(1956年)に青少年保護育成条例が制定され、有害図書が規制された。(なお、北海道に先行しては、岡山県(1950年)、和歌山県(1951年)、香川県(1952年)、神奈川県(1955年)に青少年保護育成条例が制定されていた。)(wikipedia
 
 文部省はこれに乗じて青少年の読書指導という名目で、図書選定制度の導入を図ろうとするが、批判者側も編集者側もこの動きに反対。

 日本雑誌協会日本書籍協会は、自ら「出版倫理要領」を作成し、自主規制に乗り出す。


1959年 貸本劇画の残酷描写

 白土三平の『忍者武芸帳』が刊行された50年代末、貸本制度そのものや劇画表現に世論の風当たりが強くなる。
 
 貸本は多くの読者の手に渡ることから衛生面が非難の的に。>全国貸本組合連合会は国会図書館を訪問、厚生省公衆衛生局に指導を仰ぐなどして対応。

 善悪を無視した劇画が増えていることに警告する山梨読書普及組合。
 「麻薬や殺人の描写が多い」
 マンガ本の仕入れごとにチェックをして悪質な作品を県内から締め出すことに。

 『忍術武芸帳』も、首が飛ぶ、血しぶきが舞い上がるその迫力に大人までもが驚いた。>「今日ではまったく問題にはならないことだろうが……。」と竹内オサム(93年当時)。


1968年 「あかつき戦闘隊大懸賞」問題

 当時「週刊少年サンデー」連載されていた『あかつき戦闘隊』これに関連して、同誌68年3月24日号では「あかつき戦闘隊大懸賞」を大募集、その賞品に戦記マンガに関わる品々をかかげた。日本海軍学校制服・制帽・短剣・刀帯セット、など。
 児童文学者たちは、「まるで戦争中の少年雑誌のようだ」と反発。
 要請書を提出。>「幼少年の健全な心情の発達の上に好ましくない影響は、決して少なくない」>軍国調。
 日本子供を守る会も加わって小学館に抗議。

 小学館側は、「賞品は歴史的資料」「戦記ものは子どもの喜ぶものだから」と応答。
 社長も出席し会談がもたれ、問題の処理は長期化。


1970年 「ハレンチ学園」騒動

 「スカートめくりを始めとする性の遊戯化」
 「ヒゲゴジラを権力と性の亡者として描く教師批判の態度」
 以上の2点で大人から非難を浴びる。

 『毎日新聞』、『週刊新潮』、『週刊文春』、NHKの報道番組でも取り上げられる。
 県の青少年保護審議会と青少年育成県民議会は連名で少年画報社集英社へ「俗悪本を発行しないよう」要望書を送る。校長会やPTAや婦人会にも追放協力を呼びかけ。


1973年 60年代から70年代の劇画論争

 60年代後半『ガロ』などの雑誌を拠点にマスコミの表舞台に躍り出た劇画は“良識”ある大人にその是非を問われる。
 「あんなの○×方式幼児指向だ 見るのもバカバカしい」らしい。>議論が始まるが、たがいの好みと感性を露呈し合うのみ。単なる時代の世代の断層。


1978年 エロ劇画誌発禁処分

 70年代後半はエロ劇画ブーム。自販機を中心とした“三流劇画”が勢いを持っていた。性表現も自然とエスカレート。

  • 78年11月6日 新潮社の『漫画エロジェニカ』(書店でも売ってた)が猥褻として摘発。
  • 79年2月   笠倉出版の『別冊ユートピア・唇の誘惑』が摘発を受ける。

「猥褻是か非か、でもなければ猥褻何故悪いでもない。俺たちは、それを売り物にしている猥褻屋なのだ」<『劇画アリス』編集長亀和田武


1989年 黒人差別表現問題

 『ちびくろサンボ』の絶版の流れから、マンガにおいても黒人差別表現だとして様々な作品がやり玉にされる。
 運動の主体は「黒人差別をなくす会」。



 とりあえず以上。本当に自分のいいようにまとめただけ。
 今後はいくつかの事件について個別に調べていく予定。
 私の関心は、事件の結果として出版社側および作者側がどのような対応をとったかという点。

成年マーク導入後の一般向け性表現

もう2年も前に授業で書いたものなのでいろいろと拙すぎて涙目なんですが、まあ公開しておきます。
さすがにタイトルは変更。(元タイトルは『マンガにおける表現規制と性表現』)

多少のことに目をつぶれば、ちょっとは面白いはずです。




第1章  はじめに
 
マンガは過去数多くの表現規制と闘ってきた。日中戦争直後の「児童読物改善に関する指示要領」による文化統制に始まり、(竹内オサム、1993)現在でも児童ポルノ法改正に伴い子どもに対する性的虐待を性目的で描写したマンガも規制するか否かという議論(日本ユニセフ協会、2008)が行われている。日本では出版物の約三分の一(発行部数)をマンガが占めている。(竹内 一郎、2005)そのようにマンガが人々の間に広く浸透し、影響を与えている社会ではマンガの表現規制は当然のことかもしれない。これに対して漫画家・マンガファンの多くは表現規制に反対しており、2008年夏のコミックマーケット ではマンガファンを対象に「創作物の規制/単純所持規制に反対する請願署名」(創作物の規制/単純所持規制に反対する請願署名市民有志、2008)も計画されているほどである。このような規制反対派の人々はおそらくひとつには表現規制によってマンガがつまらなくなってしまうことを恐れているのだと思う。確かに表現規制はマンガの表現の幅を狭めてしまうため、マンガの魅力が失われてしまうこともあるかもしれない。しかし、マンガの表現規制の影響はそれだけなのだろうか。また、表現規制によってマンガはどのように変わってしまうのか。
 本稿では、宮崎事件の前後でのマンガにおける性表現とその規制の実例を通して表現規制の意味、はたらきの移り変わりについて論じていきたい。



第2章  規制の前後を比較して

 1988年から1989年にかけて発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎事件)は、犯人の宮崎勤がいわゆるおたく・ロリコン・ホラーマニアとして報道されたということが原因で全国的なマンガの表現規制が叫ばれるようになった。(ダーティ・松本、1993)この結果、出版業界では自主規制の動きが強まり、今のマンガにもそれはもちろん反映されている。この章ではこの頃の急激な出版社による自主規制が行われた前後で、マンガの、特に性表現を比較しその変化を見ていくことにしたい。
 川村純子の『いけない!ルナ先生』は、講談社の少年漫画雑誌「月刊少年マガジン」に、1986年から1988年にかけて連載されていた、いわゆるお色気マンガである。本作品は当時かなりの人気作であり、コミックスの発行部数は累計215万部以上にものぼったという。しかし、この作品は遊人の『ANGEL』と並んで、2年余に及ぶコミック規制騒動の中で、最も槍玉に挙げられたマンガであり、単行本は回収、発禁となってしまった。(『誌外戦』編集部、1993)このことから、『いけない!ルナ先生』は自主規制が厳しくなる時期のまさに直前の、最も性表現が過激なマンガだったということがうかがえる。
 内容は、勉強嫌いの中学2年生の主人公、神谷わたるが美人女子大生の下宿人でわたるが通う塾の先生でもある葉月ルナに毎回エッチな個人授業をしてもらう、という話である。エッチな個人授業といっても性行為におよぶわけではなく、例えば、数学の問題が1問解けるごとに水着をめくらせ乳房に書いてある答を確認させるといった程度である。また、ルナ先生は誰にでもそのような指導をしているわけではない。彼女がエッチな個人授業をするのは母親を亡くしているわたるを憐れみ、母親代わりとしてわたるのをきちんと成長させなければならないと責任を感じているからである。よって、ルナ先生は決して多情なわけではなく個人授業の際には毎回羞恥心との葛藤がある。
 もちろん、本作の一番の売りはそのエッチな個人授業での性描写である。個人授業の始まりこそルナ先生はまだ水着や下着姿だが、ページをめくるにつれて自らの意思であったり、トラブルであったりで下着は段々と脱げ、指導の最後には必ずと言ってもいいほど全裸に近い状態となってしまう。私がここで注目したいのはルナ先生の裸体、中でも乳首の描写の細かさにある。(図1)

乳首にはトーンが張られ色が強調されており、さらに乳輪に影まで落ちているように、明らかに乳首が強調されている。乳首の強調は、乳首から集中線が引かれ、加えてコマの面積も大きくなっていることからもわかる。また驚くべきは、こんなに大ゴマであるにもかかわらず、乳首に比べて手の描写が極めて簡単だということである。手にしわの一つもなく爪すらない、ほとんどシルエットだけである。手の描写を簡略化させることは相対的に描写の細かい乳首を目立たせる。この作品では乳首は何をおいても最も強調させるように描かれているのだ。そしてそれが本作における見どころのひとつであり、そこが読者の心をとらえたのだといえる。
 しかし、この性表現は世間に過激だと判断され、前述のとおり『いけない!ルナ先生』の他、多くのマンガは書店から姿を消した。そしてこのあたりから世論の声を受け、出版業界全体は強い自主規制を始めることになる。SEXのシーンでどちらも裸で腰から下が触れ合っていてはいけない、吸茎シーンを描いてはいけない、など性表現に関して細かい縛りが生まれた。(森園みるく、1993)その中でも今も根強く残る自主規制の代表例に乳首・性器規制というものがある。現在、原則的に少年誌で女性の乳首や性器を描くことは禁じられているのだ。果たしてこの規制は現在のマンガにどのような影響を及ぼしているのか。
ここで『美少女戦士ペタリコン』という作品を挙げたい。『美少女戦士ペタリコン』とはアスキー・メディアワークスの少年・青年向けマンガ雑誌月刊コミック電撃大王」の増刊である「電撃萌王」に2006年から2008年にかけて連載されていたマンガである。作者が本人のwebページで「正統派アクションギャグ漫画(ほんのり?エロ風味)ペタリコン」と述べているように、本作には性描写と笑いが混在している。性表現と笑いの融合とはどのようなものだろうか。
ストーリーは、突如現れた地球侵略を狙う宇宙人と正義の秘密部隊に選ばれた3人の小学生がペタリコンに変身して地球を救うために戦うというものであり、「正統派アクション」マンガのあらすじの一例と言ってもよいだろう。またP(ピュア).E(エナジー).値と呼ばれる数値の高い少女しか着ることができない特殊戦闘服PETALIスーツは、少女たちの羞恥心に反応して攻撃力が上がる仕組みとなっている。そのため敵によって切り裂かれたり、溶かされたりして裸に近い格好になってはじめて敵を倒すことができる。なので1話ごとの流れとしては、敵に服を破かれ、その後逆転して敵を倒す、といったパターンがたいてい成立する。当然服を破かれるということは裸に近い状態なるということを意味しており、ここに「エロ風味」が存在している。
それでは「ギャグ」はどこに存在するのか。先ほどの『いけない!ルナ先生』でもエッチな個人授業の中にギャグ入ってはいたが、せいぜい目が飛び出すとか、鼻血が吹き出るなど笑いの対象は主にわたるのリアクションであった。(図2)

ここに性描写と笑いの融合は見られない。一方、『ペタリコン』での笑いの対象は乳首や性器を隠せと規定している性表現規制そのものなのである。
しかし、笑いの対象が性表現規制だからといっても、決して規制をかけた側を馬鹿にして笑いを誘っているということではない。逆に、このマンガでは乳首規制や性器の表現規制を厳格に守り抜いている。図3を見てもらいたい。

このシーンは、ペタリコン3人のうち二人が体に何本も触手をもった宇宙怪獣に捕らえられ、その口から吐かれる服だけを溶かす溶液をシャワーのようにかけられたところである。このようなペタリコンの大ピンチの時でも決して乳首、性器を隠すことを忘れてはおらず、その結果PETALIスーツの溶け方は不自然になってしまっている。2人のうちの手前の方のペタリコンなどショーツが少しも溶けておらず無傷で不自然極まりない。全身にかけられたのなら服が部分的に溶けずに残っていることなどあるはずがない。この不自然さの原因は乳首・性器規制であり、これは規制にしたがい乳首・性器をなんとか隠そうとした努力の結果なのである。現実に襲ってきたならまず太刀打ちできないであろう怪獣が吐く恐ろしい溶液よりも、出版社に勤める編集者のテコ入れの方が強いとはなんともおかしな事態である。そしてこの不自然な隠し方は同じようにペタリコンが服を破かれる度に必ず目にすることになる。同じことを何度も繰り返されれば滑稽さも増すというものだ。(図4)

web上のレビューを見ても「全裸にされても『どう隠すか?』に、作者の”全力”を感じた。w」、「脱がした後の全裸の隠し方、がこの作品の全てです!!」(何かよくわからん気まぐれBlog、2008)など、乳首・性器を隠すことを否定的にはとらえておらず、むしろ徹底的な乳首隠し、性器隠しはギャグとして肯定的に受け入れられている。『いけない!ルナ先生』では乳首を見せることが見どころであったが、『美少女戦隊ペタリコン』では表現規制のおかげで乳首を隠すことがギャグとしてこの作品の一つの見どころとなっているのだ。
このように性表現規制がギャグになる例は最近では他にも数多く見かけられる。竹内元紀の『仕切るの?春日部さん』の23話の入浴シーンもその好例だ。(図5)


乳首を隠したりせず、見開きでサービスするというという前フリを受け、読者が期待してページをめくると乳首はなんと本の綴じ目の奥にあるため見えなくなっているのだ。確かに彼女もこれを描いた作者も隠しているわけではないが、どっちにしても乳首が見えないことにはかわりがない。その下の二人はそれに衝撃を受けたためにつっこみが入り、「ボケ」と「つっこみ」が成り立って笑いがおこる。ここでも乳首規制がギャグとして利用されている。



第3章  ベルグソンの研究から

 それではなぜ乳首隠しがギャグになりえたのだろうか。ベルグソンは笑いに関して次のように述べている。

通りを走っていた男がよろめいて転ぶ。通行人は笑う。思うに、この男が急に地べたにすわろうという気になったのだと想定することができれば、人びとは男のことを笑わないだろう。人びとは男がそのつもりなくしてすわったことを笑うのだ。そうしてみれば、笑わせるのは男の体位の急激な変化ではなく、その変化の中にある不本意、不器用さである。石が通り道にあったのかもしれない。歩き方を変えるか、障害物をよけるかすべきだったのだ。それなのに、柔軟性が足りず、からだがほかのことに向けられていて、いうことをきかず、つまりぎこちなさ、ないしは惰性のせいで、事情がほかのことを要求していたときに、筋肉は同じ運動をおこない続けたのだ。だからこそ、この男は転んだ。そしてそれを通行人は笑うのだ。
次に、自己の日常茶飯事を数学的な規則正しさでおこなう人がいるとする。ただ、だれかいたずらものが、この人をとりまく事物にいたずらをしかけたと仮定しようその人がインク壺にペンをいれると、泥がついてくる。しっかりした椅子に腰かけたつもりなのに、床板にひっくり返る。つまり、この場合も惰性のせいで、あべこべにふるまったり、から回りしたりする。習慣が、あるはずみを刻みこんであったのだ。運動をとめるなり、ほかにそらすなりする必要があったのだ。それなのに、それどころか。器械的に一直線に続けてしまった。仕事部屋のいたずらの犠牲者は、つまり、走っていて転んだ男と類似した状況にある。同じ理由でおかしいのだ。どっちの場合も、笑いを誘うのは、ひとりの人間としての注意深い柔軟性と生き生きした屈伸性があってほしいところに、いわば機械のぎこちなさが見られるからだ。(Henri Bergson、1959)

話をマンガの性表現規制に置き換える。マンガを読んでいる読者各自は話の流れを考える際に次のようなことを自然と思うはずだ。登場人物が乳首・性器を露出して当然だと思われる状況が描かれる時、作者が想像力を注意深くはたらかせ、その状況に合わせて柔軟性を発揮させながら、そこにさりげなく乳首・性器が描写されている、ということである。この通りに描かれていたなら乳首・性器の露出は自然な流れということで決して笑いがうまれることはない。しかし、読者の意識に反してここに機械のぎこちなさを加え、笑いを生み出すのが表現規制である。表現規制はいわば決まり事だ。決まり事は行動の指針であり、これを逸脱することは許されない。つまり、決まり事の内容以外の行動はとれないのであって、たとえば融通をきかせて行動を変えることなどできない。表現規制はこのように頑固さを持っており、融通をきかせず乳首・性器を厳格に隠してしまうという様に読者は機械のぎこちなさを感じるのだ。
 先ほどの『美少女戦隊ペタリコン』の図3の場合、ペタリコンが服を溶かす溶液を全身にかけられたなら、普通読者はPETALIスーツの溶け方は全身で均等なのが自然だろうと考える。ペタリコンは敵に捕らえられ、危機的状況に陥っているのだ。そのような真剣な場面で下手なことをして雰囲気を壊してしまうようなことがあるはずがない。本来ならばこのようなピンチの場面はペタリコンと読者が危機を共感し、見ている側の緊張もどんどん高まっていくシーンのはずなのだ。ところが、乳首・性器規制のぎこちなさはこの緊張感をいとも簡単に打ち砕いてギャグにする。自然な流れが崩壊し規制のぎこちなさを見つけてしまうや否やすぐにペタリコンとの感情の共感は断ち切られ、逆におかしさがこみ上げてくるというわけなのだ。
 また、ベルグソンはこうも述べている。

 たとえば、ここで、ある雄弁家のなかで、身振りとことばとが張りあっていると仮定する。身振りは、ことばに嫉妬して、思想のあとを追い、自分もまた思想の代弁者の役を果たすことを求める。それはそれでよかろう。しかしこの場合、身振りは思想の進展の詳細を追っていくことを引き受けねばならない。観念は、雄弁の始めから終わりまで、生長し、蕾をふくらませ、花を開き、実っていくものである。観念は決してとどまらず、決して繰り返されない。観念は刻々変化せねばならない。変化するのをやめるとは、生きるのをやめることになるだろう。したがって、身振りも観念のように生気をおびなければならない。それは決して繰り返されないという生命の根本法則を受諾すべきである。しかし、ここで、腕なり頭なりのあるいつも同じ動きが、周期的に立ち返ってくるように思われると仮定する。もしわたしがそれに気づき、もしそれがわたしの心を奪うにじゅうぶんであり、わたしがそれを次に現れる機会に待ちうけ、そしてそれがわたしが待ちうけているときにやってくると、思わずわたしは笑ってしまうだろう。なぜだろうか?それは、いまや、わたしの前には自動的に動く一つの機械があるからだ。それはもはや生命に属さない。生命の中にはいりこみ生命をまねる自動現象に属する。それはおかしいものなのである。(Henri Bergson、1959)

つまり、乳首・性器規制は修正がかかるタイミングが予測しやすいという点でもおかしさを生む。修正がかかるタイミングというのは単純に乳首・性器が露出するときであり、基準が明確であるがゆえにとてもわかりやすい。『ペタリコン』でいうなら、ペタリコンたちが何度敵にPETALIスーツを切り刻まれようともそのたびに何回も同じように不自然に修正が入っている。(図4)読者は読み進めるうちにそれに気づき、修正の入るタイミングを待ち受けることになる。その状態でPETALIスーツが破れ修正が入ると「やっぱり」と感じておかしみが生まれるのだ。
また、『仕切るの?春日部さん』の先ほどの図5の例を用いれば、ここで読者は入浴シーンということで乳首・性器の露出を予想し、修正を待ち受けることになる。少年誌の入浴シーンでは一般的に、規制のおかげで不自然な湯気やタオルや泡、人や障害物の配置で乳首・性器を隠すのが普通なのだ。(図6)

だから、真面目な流れの中での入浴シーンだとしても、そこではいやでも修正を覚悟しなければならない。このマンガの中の女性は気分がいいから隠さないと言っているが、そのようなことできるはずがない。乳首を隠すという決まりが存在しているのだから、もしここで乳首が見えていたら乳首規制の終焉となるはずである。そう思ってページをめくると、案の定、乳首は本の綴じ目で隠れており、読者は「やっぱり」と感じて笑うのだ。
このようにしてマンガの性表現規制はギャグになりえている。少年誌で乳首・性器を描いてはいけないという常識が浸透している現在ではそれらを隠すことは単に規制という意味だけではなく、面白いものとしても認識されているのだ。



第4章  新たな価値の創出

 性表現規制で笑いが生まれることをこれまで見てきた。そしてこの種のギャグが生まれたのは乳首・性器規制が始まったためであるといえる。乳首隠しをギャグにするためには読者が乳首・性器は表現が規制されているという事実やその理由を知っていなければならない。そうでなければ不自然な修正を待ち受けることができず、乳首の隠れている箇所を発見してもそれを疑問に感じるだけである。また、漫画家の側も自分の描きたいものだけを描きたいという願望がある以上、周りからの声や編集者からの圧力がなければ乳首を隠そうなどとは思わなかった。規制とはそれが始まる時には仕方なくなされるものであったはずである。ところが、仕方なくやっていたはずの規制は『美少女戦士ペタリコン』をはじめ、積極的に表現としてマンガの中に取り入れられている。これは表現規制によって新たにもたらされたポジティブな意味に気付いたことを示していると言える。表現規制は元来表現の自由を奪うとものとされてきたが、一方で新しく前向きなものを生み出すきっかけでもあるのだ。
 桜井のりおの『みつどもえ』というマンガがある。これは、小学6年生三つ子とその周辺人物たちの日々を描く普通のギャグマンガである。この作品のギャグは『ペタリコン』などとは違って、日常の人間のすれ違いや登場人物のおかしな性格によって笑いを生む、いわば王道的なものである。その中にはギャグとしてパンツを被るなど非常に多くのパンツが登場する。ある読者のレビューでは「おそらく2007年で一番ぱんつの登場回数が多かった作品だと思う。」(たかすぃ、2008)とも言われているほどである。しかし、ここに登場するキャラクターたちは決してパンチラをしない。作者が意図的に不自然に隠しているため、この作品ではいまだかつて完全なパンチラが描かれたことはないのだ。(図7)

なぜパンチラを隠すのか。本作が連載されている少年チャンピオンの他作品を見ても、パンチラ規制を行っているというわけではないらしい。隠すことはまったく不要のはずだ。しかし、作者は4巻の巻末で次のように語っている。「パンツは見るものではなく感じるものです 道を極めればおのずと柄やシワの一つ一つまで感じることができるでしょう」(桜井のりお、2008)つまり、作者が頼まれてもいないのにパンチラを規制するのは、読者にパンツをより細かく妄想させ、このマンガの別の新しい楽しみ方を提案しているからなのだ。実際に描かれているものよりも想像力を駆使したもののほうが何倍もいい。想像力に限界はないのだから。作者は読者各自に頭の中で最高のパンチラを妄想して楽しんでもらうためにあえて自主規制しているのだ。
これに類似して「はいてない」というジャンルがある。「はいてない」とは「下半身のラインがどうみてもおしり丸出しでパンツはいてないように見えるのに、そのことのついて何の説明もない」(湊谷 夏、2008)ということで、パンチラを自主規制して隠そうとした結果、パンツをはいているようには見えなくなったキャラクターのことである。(図8)

みつどもえ』は話の中でパンツをはいている描写があるため脳内でパンチラを想像するに留まるが、こちらはパンツをはいていない可能性すらある。その可能性ゆえに、読んでいるほうはスカートの中身の妄想を掻き立たせられる。パンチラを作者側で自主規制 し、わざと隠すことでこのような新しい楽しみ方が生まれるのだ。
表現の規制は確かに表現の幅を狭めるものであり、新しく規制をかけたならつまらないマンガしか残らなくなったという事態になる可能性だってある。しかし、今日さまざまな規制や社会の声が表現を縛りつけているマンガ界で、そのおもしろさは今もまったく衰えてはいない。それはひとえに漫画家たちのより楽しいマンガを作ろうとする努力のたまものなのである。規制された表現の中でいかによいものを作るか研究した結果、これまで述べたようなものが生み出されてきたのだ。その努力がある限り、表現を規制されたからといっても決してマンガの面白さは消えることはないだろう。マンガとは言ってしまえば嗜好品、本来必要のないものだ。それが幾度の規制に負けず、それどころか規制を乗り越えて次々とおもしろさを生み出している。嗜好品などよほど強いものがなければ少しの規制で潰れてしまうものだ。たかが嗜好品といえどとてつもないパワーをマンガは秘めている。そんなマンガの動向を今後も注意深く追っていく必要があるだろう。



参考文献リスト
竹内 オサム(1993)「マンガ差別・発禁・規制等”事件史”」コミックの表現の自由を守る会編集『誌外戦』創出版,pp.216-226.
日本ユニセフ協会(2008)「特集・子どもポルノから子どもを守るために」http://www.unicef.or.jp/special/0705/backnum/080317.html
竹内 一郎(2005)『人は見た目が9割』新潮新書
創作物の規制/単純所持規制に反対する請願署名市民有志(2008)「活動予定一覧」http://www.savemanga.com/2008/05/test_28.html
ダーティ・松本(1993)「1990年の落雷」コミックの表現の自由を守る会編集『誌外戦』創出版,pp.244-249.
浜銀総合研究所(2005)「2003年のコンテンツ市場における『萌え』関連は888億円」http://www.yokohama-ri.co.jp/press/pdf/pr050401.pdf
『誌外戦』編集部(1993)「『いけない!ルナ先生』絶版騒動顛末記」コミックの表現の自由を守る会編集『誌外戦』創出版,pp.194-200.
森園みるく(1993)「見比べてみると…」コミックの表現の自由を守る会編集『誌外戦』創出版,pp.82-83.
はせ☆裕「ペタリコン番宣2」http://www.geocities.jp/white8631ggg/osigoto-1petalicon-b.htm
何かよくわからん気まぐれblog(2008)「敵を倒すのが先か?全裸になるのが先か? 漫画『美少女戦隊ペタリコン』を読む!!」http://blog.livedoor.jp/okazuokazu1/archives/50992887.html
Henri Bergson(1959)Euvres,Textes annotes par Andre robinet, introductionpae Henri Gouhier, proffesseur a la Soebonne, P.U.F.(=鈴木 力衛・仲沢紀雄共訳『笑い』白水社、1965年)
たかすぃ(2008)「このぱんつがすごい!」『現代視覚文化研究 vol.2』三才ブックス,pp.44-45.
桜井 のりお(2008)「製作秘話」『みつどもえ④』秋田書店
湊谷 夏(2008)「このマンガがはいてない!」『現代視覚文化研究 vol.2』三才ブックス,pp.55.
はてなダイアリーテレ東規制http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%EC%C5%EC%B5%AC%C0%A9

卒論構想 「エロマンガの表現――マルチスクリーンバロック――」

 1992年の「成年コミックマーク」の導入でマンガ界は大きく変わった。「成年コミックマーク」とは、1988~89年の東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件、いわゆる宮崎事件に端を発した有害コミック騒動の最終的な結論である。それまで野放しにされていたマンガにおける性表現を子どもの目から遠ざけるために、出版社側が自主的にマークを付け始めた。このマークが意味するのはマンガのジャンルにおける「成年向け」と「一般向け」の決定的な断絶と、それぞれのジャンル内での性表現の洗練・先鋭化だ。混沌としたマンガ界に突如として仕切りが入った。

 「断絶」と述べたがきれいに二分されたわけではない。大手出版社は原則マークの付かない作品のみを出版するようになったため、「成年向け」はトカゲの尻尾のように切り離された格好になった。「一般向け」に比べれば「成年向け」=エロマンガの面積は狭い。その狭さゆえに表現の洗練・先鋭化はより加速していった。

 ジャンルとして括られてしまったエロマンガの変化を一言で表すなら「抜き重視化」となるだろう。「抜き」というのは自慰行為のこと。エロマンガはポルノグラフィとしての役割を強く内面化し、読者の射精の欲望に応えるだけではなく、積極的に射精を促すように表現を洗練させていった。

 エロマンガはわざわざ18禁となった意味を問いつめられ描写の過激化を図る。セックスシーンの挿入を強制され、その最低ページ数も定められた。しかし、そのページ数では足りないという事態が起こる。そこでエロを圧縮する表現が生まれた。マルチスクリーンバロックと名付けられたマンガ表現だ。

 一般向けマンガのセックス表現と比べてもエロマンガのセックス表現は読者に射精を促すと言う点でまったく異なった表現だが、マルチスクリーンバロックはその極地と言える。読者は物語上の一瞬に膨大な量の情報(性感)を受け取り、視線の流れの定まらない古典的マンガ文法破壊で読者は奇妙な倒錯感を伴いながらそれを延々と眺め続ける。そのページを凝視している間に射精しろと、ここが抜きどころだとコマ構成は語っているのだ。

 ところでマンガにおける同一化の議論がある。竹内オサムは登場人物と読者の視点が重なることで同一化がおこると論じた。しかしこれは目玉を同じ位置に想定させるだけである。エロマンガで読者に射精を促すためには視覚だけではなくキャラクターの快の感覚を同化させなくてはならない。泉信行は読者がキャラクターの主観と同化するためには身体感覚や位置感覚などの情報が必要だといった。マルチスクリーンバロックはこの情報の応酬である。男のキャラクターだけではなく女のキャラクターの感覚までも同化する読みを強いる。

 成年マーク以前は竹内の視点同化が主流であったが、それ以後は表現の洗練の中で、マルチスクリーンバロックのような感覚同化へとマンガ表現は変化した。



関連: 「たゅん(@talyun_)のエロマンガ論、ポルノ論」-Togerrer- http://togetter.com/li/4174

表現系サークルの検閲と自由

私の所属している映画制作サークルの活動についてちょっと文句があるのでここに記します。

我が部の外に向けての活動は大きく分けて2つ。まず、年2回の自主制作映画の上映会。そして、昨年から新しく始めた年1回の部誌の発行。問題はその部誌で起こりました。

部誌の発行活動は昨年から始まったまだ歴史の浅いものです。作りとしては、特集記事・座談会・テーマ自由記事、という感じで全部員が自由参加で自由に記事を書いて投稿するという形式を採っております。

実はこの部誌の発行をやり始めたのは私でして、今回については下の世代に任せることにしたのですが、まあ影の監督者みたいに勝手に振る舞っていたわけです。で、編集作業も佳境という頃に先輩ぶって部誌の様子について編集委員の一人に尋ねたのです。すると、とある記事の内容が不適切であったため、ボツにするつもりだという話を聞かされました。

どれどれと思ってそれを読んで見ると、戦争論についての記事でネトウヨっぽい内容を含んでおりました (まあテーマは自由だから映画に関係なくてもいいのです。ちなみに私は電波ソングについて書きました→ http://d.hatena.ne.jp/talyun/20100610/1276132014 ) 。それが一部の人々の感情を傷つける可能性があり、そのため掲載を取りやめた、というのが編集委員会の主張だそうです。

「部」の名前を使って出版するわけですから、その記事の責任は個人ではなく部が背負うことになります。苦情の電話が来て廃部になってはもとも子もありませんので、まあ検閲も仕方ないのかもしれません。しかし、記事募集を呼び掛けるときは「自由」を謳っておきながら、実際は検閲が行われてしまってなんじゃそりゃ、と思った次第です。

これが今回起こったことです。部誌の発行が問題となりましたが、これは映画サークルで起こったこと。部誌の記事執筆だけではなく映画制作も十分射程内です(原稿執筆も映画製作も一人からできます)。問題は部誌内にはとどまらず、部の活動全体に波及します。

まあ、部内の表現活動が委縮しちゃう、とかいろいろ影響はあるかもしらんけど一旦置いといて。

私は表現規制反対運動とかちょっとコミットしてたのでその経験から疑問なのですが、やっぱり検閲は恐ろしいです。この件は大学の一サークル内の問題なので生きる死ぬにはもちろん関係ない「お遊び」なのですが、自由ってのは重要です。大学のサークルにおいて自由がなくなりゃ楽しいはずがありません。楽しくなきゃ衰退の一途です。学生ってのはそんなもんです。一応4年も在籍した部ですから愛着はありますので、やっぱり今後も楽しい部として繁栄していただきたい。そのためには多少の検閲も必要なのかもしれません。ひとりひとりが好き勝手やっていては時に歯止めがきかなくなり、問題起こして廃部みたいな話もありえますし。

自由と検閲。一見相反するようですが根は同じなのです。全ては「楽しさ」のためにあります。表現で飯を食うわけじゃないのでこれでいいんです。

で、今回まずかったのは、というか今後の部の運営上の問題として提起したいのは、検閲するなら明確な基準を設けなきゃだめだろ、ってことです。全部自由にしろとは言いません。検閲は時には必要です。だけど、「作ってみたらボツられた」では苦労が水の泡です。面白くありません(今回は編集委員会が執筆者に相談し、納得してもらった上で掲載を見送ったという話も聞いてはいますが、それは面白くないことを納得しただけです。ただ納得してもらえればいいという問題ではないのです)。

ですから、検閲をするならするで始めにガイドラインを作るべきだったのです。ガイドラインの作成には過去の事例との照らし合わせや、民主主義的合意の過程を踏まねばならず、ものっすごい面倒ですが、部を楽むための検閲をするためにはこれは必須なのです。これがない検閲はまったく楽しくありません。恐怖政治です。

しかし一方で、「各々の良心に任せる」ってな検閲ガイドラインもアリっちゃアリだと思います。実際今までこれで動いてきたようなものですから。文句を言われても歴史を盾にしちゃえばいいわけです。
あと、本当に抗議がくるのかというのも疑問です。前号の部誌なんてエロマンガから図表を引用しましたし、前々号はフィギュアのパンツを撮影した図表を掲載しましたが、誰にも怒られませんでした。制作した映画の内容で怒られたなんてことも聞いたことないです。第一、大学のサークルの表現物なんて、本気になって文句をつけるという労力を払う価値なんてないのです、学生ですから。自意識過剰すぎます。

複雑で面倒な協議を経て検閲ガイドラインを作るか、それとも各々の判断に任せるだけの懐の深さを持つか、楽しい部にするにはどちらかしか選べません。その覚悟がいま必要なのです。それが部を楽しむための義務なのです。


とかなんとかここで書いても部は動きそうもないので、私がいっちょう「天皇をレイプする映画」をフィギュアで撮影して上映会に提出しようかなと思います。問題提起は映画の使い方としては至極正しいでしょう。



関連:「『表現系サークルの検閲と自由』 事例」-Togetter- http://togetter.com/li/20299

ハートキャッチプリキュア! 来海えりかちゃんの魅力 -レジュメ風-

大友に大人気ハートキャッチプリキュア!

中でもキュアマリンこと来海えりかちゃんが本格的にやばい

ハートキャッチプリキュア!の毎話のだいたいの流れ
・問題がおこる
・それに悩んで心に闇ができる
・そこを敵につけこまれて怪物化
・人を襲う、暴れる
プリキュアが倒す
・するとなぜか悩みが解決してる

(問題が解決したわけではない)
悩みが解決したのは、怪物になってストレスを発散できたから

発散することを抑圧されたストレスがプリティにキュアーされた

ここでの抑圧とは→キャラの鋳型に自分が押し込まれている状態
第5話、ラーメン屋の回、自分のキャラじゃないからお父さんに素直になれない三浦くん
第9話、新入社員キャラを意識しすぎてやりたいことができなくて悩んでた小畑さん

EDテーマ「ミスマッチもキャラのうち」

ペルソナどおりの振る舞いができなくても、それはそれでペルソナどおり
いじられキャラの人がキレたところで、その怒りに対してツッコミが入る

一人の人間の中にはいろんな面が共存しているもの
自分を追い込んでまでキャラに縛られなくてもいいんだよ、とわれわれに対するメッセージ

EDテーマ「キャパをこえても 楽勝だよね!/永遠に枯れることない こころの花」


この権化がえりかちゃん
えりかちゃん最高

えりかちゃん=うざキャラ 天真爛漫

たとえば第9話
うざキャラなのにつぼみの心の機微を感じとって配慮
うざキャラって他人のことお構いなしじゃないの?
うざキャラのまま配慮できてるように見える
(1話はプリティにキュア―される前なので例外)

第8話など
姉にコンプレックス抱いてる
天真爛漫キャラにトラウマって邪魔じゃないの?
独白・姉との会話でもちゃんと天真爛漫に見える

自分のキャラの「キャパをこえ」たところで「楽勝」に振舞うえりかちゃん
えりかちゃんはキャラに振り回されることなく「永遠に」えりかちゃんのままであり続けるのだろう

そんな彼女にわれわれはどうしようもなく魅力を感じ、憧れる

1000字でわかる電波ソング

4月に発行されたはずの部誌に寄稿したものをここで公開

部誌のテーマが「音楽」だったんで電波ソングについて書きました。
まあ、オタク向けの文章じゃないのであしからず。



電波ソング」なんて言葉初めて聞いた、って人はまずニコニコ動画のアカウントを取ってタグ検索して人気のありそうなものを試聴すべし。話はそこからだ。

 「一度聴いたら忘れられない」という意味不明な定義がなされたこの音楽ジャンル。意味不明であるがゆえに大多数には理解されず、しかし、一部にはコアなファンが存在している。また、コアではないファンですらオタクコミュニティの中でも多数とは言えず、半ばネタ的扱いに止まる。これは電波ソングの性質上、仕方のないことだ。つまり「恥ずかしい」音楽なのである。

 電波ソングでは女性がアニメ声・萌え声で歌う場合が多いが、そんな歌を聴いてると周りに知れたら気恥ずかしい。『もえたん』のカバーを裏返して装着すると、普通の単語帳のようなデザインで、『もえたん』であることを隠せる仕様であったことを思い出してほしい。萌えというのはそれを享受していることがバレると恥ずかしいものだ。たびたび「萌えソン」とも呼ばれる電波ソングにおいても同様なのである。

 また歌詞も恥ずかしい。カ○ラックさんに配慮してタイトルだけ引用すると、「ふわっFUワッホー☆メイプルまじっく!!」だとか「生意気☆いちごミルクDAYO!!」(いずれもあべにゅうぷろじぇくと)など。たぶんここから察していただけると思う。「あなたが大好きなのっ☆」、「胸がくるしくなっちゃう」といった身体の奥がむずがゆくなってくるような歌詞100%なのだ。萌え声ならば倍増である。

 これらの二重の「恥ずかしさ」によってもたらされるのが「どきわく感」である。羞恥によるマゾヒスティックでナルシスティックな昂揚感は電波ソング特有といえるだろう。さらに、高速のテンポ、キラキラとした電子音もどきわく感を演出する。

 合いの手。これを忘れては電波ソングを語ったことにはならない。「キュンキュン!!」「ハイ!ハイ!!」といった嬌声の組み込みである。電波ソングをカラオケで歌うと分かるが、合いの手まで歌おうとすると息継ぎの暇がなくなる。この現象は翻って聞いている側にも同様で、萌えボイス・電子音が息をつく暇もなく次々と襲いかかって、こちらにまるで思考の隙を与えない。昂揚に次ぐ昂揚の強襲は、どこか狂気に満ちた「躁」の音楽とも言える。ひとたび再生したなら、沈んだ気持ちも脳みそを溶かしながら無理やり最高潮まで連れていかされる。そんな麻薬のような音楽が電波ソングなのである。

表現規制について 2009夏

去年の夏に部誌へ寄稿した記事。
特集が「表現規制」だったんだけど、そのまとめ的なもの。
東京都の条例の流れでなんとなく晒しておきます。


「部誌」が気になる方は新潟大学の「黎明祭」か「新大祭」のときに「映画倶楽部」のブースまでお越しください。



 とりあえず、座談会の話から書いていこうと思う。グダグダな会になってしまった原因は私の準備不足なだけなので置いておいて。感じたことは大きく2つ。まず、表現者としての自覚がまったくないということ(私じしんも偉そうなことは言えないのだが)。映画倶楽部の座談会のはずなのに当の自分たちの表現について話が及ぶことはなかった。当事者意識に欠けている。自分たちには関係のない話だと考えているのだろう。現状として映画倶楽部では好き勝手に映画を撮っているが、これは決して当たり前のことではなかった。欧米なんかでは表現というものは勝ち取って得られたものだ。私達にはその意識が圧倒的に足りなく、過去の表現者たちの活動の結果を安穏とむさぼっているにすぎない。

 しかしながら、「表現は戦わないと得られない」という意識が希薄なのは理解できる。国内に限って言えばもともと歴史上、文化のために戦うことは少なかった。キリスト教のように宗教の縛りは強くなかったし、権利意識も輸入品だ。ケータイのフィルタリングで言うならブラックリスト方式だったため、文化の自由度は高かったのである。戦時の映画規制も国民が旗を挙げて廃止を迫ったのではなくGHQの口添えであったことを考えても、やはりそこに文化を守るための活動は見られない。

 また、表現が規制されてしまうことじたいにリアリティがない。思想弾圧された戦前・戦中はもはや遠い昔、まさか逆戻りするはずもない。みんなどこかで「規制されても結局大丈夫」とか思っていたりする。

 戦わなければ、あっという間に規制の波が押し寄せてくるのだ。私は今回の特集を通しててそのように感じた。特に、最近の「気に入らないものは排除する」という空気の中では表現を守るための行動がいっそう必要である。が、危機感はどこにもない。規制に関して興味のない人にいかにして関わってもらうか。活動に動員させるか。そのための方法は今後も考えていかねばならない。

 次に感じたのは、性について語ることの困難さということ。座談会のメンバーの女性に「AVの中身を見たのか」と尋ねると言葉を濁され、また他のメンバーからはセクハラだと非難を受けた。彼女がエロマンガとの比較でAVのパッケージの話を持ち出したから、ではエロマンガとAVのどのような表現を比較したのか尋ねたのである。そこにセクハラ的な意味合いやネタっぽさを加えたつもりはまったくない。また、私が持ってきた数々のエロい資料に積極的に目を通そうという人はあまりいなかった。座談会という比較的フォーマルな場ですらまじめに性を語ることまでも忌避されてしまっている。

 このような状態では、「ポルノ」という語がくっついた時点で児童ポルノ法についての議論は不可能となる。座談会のグダグダの(私の責任ではないほうの)原因はここにある。私の私見を言うと、私たちは所詮「歩く猥褻物」なんだから性から逃げ回るのはバカバカしいことこの上ない。ついでに言うとそもそも親がエロいことして生まれてきたのがおまいらなんだから、性から逃げ回ることは自分を否定してるのと同義だ。なにも常時下ネタを吐き続けろと言うつもりはないが、せめて「勉強」という建前のあるときぐらいはセックスについて語れるようになっておくべきではないか。そうでなければ、「児童ポルノ法」というネーミングだけで拒否反応を起こし、その裏の警察の権限拡大という重大な問題点に気づかないことになってしまう。

 性について気軽に語れなくなった原因ははっきりしている。ゾーニングされすぎたのだ。エロマンガは18禁シールが貼られ、売り場が隔離され、隠され、目につかなくなった。その他の性メディアでも同様である。アニメではパンチラすら規制されている。エロいものは青少年だけではなく社会全体から隔離され、見ようと思わなければ見ることがなくなった。そして現在では次の段階、見ようと思ってもどこにいけばよいかわからない状態、さらに、見ることを諦める状態、そもそも見ようと思わない状態へ移行しつつある。

 この流れの行きつく先に、性的なものを極端に嫌い、ヒステリックに規制を推し進めようとする輩が現れる。この種類の人たちの議論は見ていて本当に興味深い。たとえば、「細かい議論が沢山あると思うが、何で反論している人の事まで考えなきゃいけないのか。不愉快で子供に危険が及ぶ物と公共の福祉とのどちらに重きを置くのか、ガンと後者に持っていけば良いと思う。マイノリティに配慮し過ぎた挙句、当たり前の事が否定されて通らないというのはどうしても納得出来ない。」などだが、ここでの問題は彼等が内実をわかっていない、わかろうとしていないということだ。自分たちの「当たり前」を疑いもせず絶対的に正しいと考え、その範疇から漏れたものは何としても排除すべきだと述べている。非常に盲目的で具体例を挙げる必要すらないと思い込んでいる。エロマンガであれば、誰が描いた何という本の何ページ目の何コマ目がエロすぎるだとか、コミックLOは明らかな児童ポルノであるだとか、コンビニ誌では一般誌に比べてこれほどエロさが抑えられているだとか、エロマンガ愛好家たちの間に流れている空気とはこんな感じですだとか、具体的な事例や調査などという話がまったく出てこない。「エロマンガは規制すべきだ。それはなぜかって?それはエロマンガが悪いもので規制されるのは当然だからだよ。」という円環した理論でもって彼らは動いているのだ。

 情報がゾーニングされすぎてエロマンガの情報はまったく入ってこない、入れようとしない。また、議論の参加者もゾーニングされてしまうようになり、冷静に規制していこうという人種は追い出され、ヒステリックな連中だけで話しは進んでいく。これは規制反対派、つまりオタクの側にも言えることで、規制反対の署名の冊子ひとつ見ても完璧に内輪向けで自分たちのゾーンの外側に出ようとしていない。興味のない中間層もゾーニングされていて、外から情報が入ってくることはなく、また求めることもしない。要するに社会全体、人、情報、思想、文化がゾーニングされまくってにっちもさっちもいかない状態となっている。最近のはやりで言えば「島宇宙」という言い方もある。この状態は決して均衡状態ではない。ゾーンの中のすべては先鋭化し、ゾーンどうしの確執は深まり続けていく。

 この問題を解決したいと思った時、私の立場から言うなら「表現規制反対運動」がしたいと思った時にいったいどうすればよいのだろうか。何かやりたくてもどうすればよいかわからずにいる人は意外と多いと思う。「知識はないし、地位も権力もない。勉強するのは大変そうだし…。」08年の児ポ法改正の一連のネット上での議論をみているとそのような空気が感じられる(規制反対の活動を精力的に行っている人々が、このようなやる気はある人々に指示を出しきれなかったこと、活動のソルジャーに育てようとしなかったことをここで批判したい)。

 しかし、労力のかかることをする必要はない。最も簡単な規制反対運動は「誰かに勧める」こと「誰かの目障りとなる」ことである。友達でもだれでもよいから身近な人にエロマンガならエロマンガを見せてやるのだ。存在は知ってるけど中身は読んだことないという人へ押し付けてやる。興味のないヤツらや嫌悪してるヤツら、その場その場で空気を読むことが必要だが、とにかく仲間内ではない他のゾーンの人間と交流が必要なのだ。批判するにしてもとりあえず知ってもらわなければ建設的な話にはならない。情報が共有されれば気持ちよくお互いに理解し合い、落としどころがはっきりしてくる。誤解は必ず解けるはずである。


以上が総括というか、特集の編集作業を通して私が感じたことだ。表現規制を食い止めるために果たして私に何ができるのか。それをなんとか探し当てようとしたのがこの特集という企画だった。身勝手にもつきあわせてしまった映画部員、特に特集に記事を寄稿していただいた方やレポートを書かせてしまった編集部員の2人には申し訳なかったと思うが、それでも私の中ではそれだけの価値は得られたと感じている。お礼を申し上げたい。

 ここまで読んでいただいた読者の方が特集記事を読んでどう感じられたのかはわからないが、とにかくその何か感じたものを誰かに話していただきたい。現状で我々に必要なのは対話である。これほど大きな法律が成立しそうなのにオタク以外で議論がまったくない。児ポ法が改正されるにしろ廃案になるにしろ、国民が納得してなされるべきだ。納得をするためには議論を重ねるしかない。「エロマンガはキモイ」でもまったくかまわない。何かを声に出してほしい。すべてはそこから始まるよう気がするのだ。
そして、そのきっかけとして、この特集がどこかに少しでも波紋を広げられるようにと切に願う。